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ぷろふぃーる ぷろふぃーる 神事場の梅林 神事場の梅林
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生みの親は
明治31年(1898)に琴平町立工業徒弟学校(現在の海洋会館のあるところ)が開校され、その第1期生として彫刻課に入学した谷口喜代吉こと谷口寸斎です。

年齢は
女性ゆえあまりおおやけにはしたくないのでございますが生まれたのが多分昭和15年ごろではないかと思いますので....

モデルは
みなさまご存知の清少納言でございます。なぜ、清少納言かと申しますと、その昔、清少納言は父清原元輔と共にこの地に来たと言い伝えがあり、その碑が金毘羅大門の横に建っております。清塚と申します。

素材は
琴平と善通寺の境に岩崎というところがあり、そこには「清少納言衣掛けの松」と呼ばれる老松がございました。
その松が枯れてしまったのでその木を用いてわたくしが生まれたのでございます。

住まいは
金刀比羅宮図書館に住んでおります。是非会いに来て下さいませ。わたくしはいつでもお待ちしていますが月曜は玄関が開いていないようでございます。その他の日も11時を過ぎてからのほうがよろしいようです。








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今は昔、明治27年4月4日 琴平ステーションが神明町にあった頃のことでございます。鞘橋も新町と内町の間に架かっておりましたし、富士見町の並燈籠は左右に整然と並んでおりました。そして、お山には数千本の桜が満開で薄桃色に染まっていました。高い建物もなく一望に見渡せたことでしょう。
 それより5年前にできたばかりの陸蒸気とよばれる汽車に乗ってきたアメリカ人が琴平ステーションに降り立ちました。年は40過ぎ、洋服を着て帽子をかぶっています。口ひげを生やしていますが眼差しの優しい人です。日本人の奥さんと生後半年ぐらいの男の子とその祖母を連れておりました。
 この人はステーションに降り立つと共に「嗚呼、何と言う美しい町でありましょう!」と感嘆の言葉をもらし、眼前に広がる春の情景に見入りました。
 「何と多く古物が残っているではありませんか! 青い光を暖かく、無限に受けており、−桜と桃とは花盛り−薄桃色の花が咲き出でて曚とした中を通しての長い通景(みとおし)、その光と日の黄金との中に道が続いて、まるで極楽へでも行くような幻の町のように思えた。」と友人に手紙を書き送っています。
 そして、さらに 「あの驚くべき橋、鞘橋を渡り、あの石燈籠が両側にある道を下りました。」「金毘羅の町の妙趣は何でありましょう。確かに特別なある一つの事物にあるのではありません。見事な青空の下で頗る(すこぶる)単純な事物の偉大な結合の結果であります。町全体が芸術品であります。」「私は金毘羅内町のある学校で教えて、始終そこに留まっていたく思いました。」とも書かれておりました。
ラフカディオ・ハーン
 この人はラフカディオ・ハーン、小泉八雲という方だそうでございます。
明治の頃は本当にきれいな町だったのでしょうね。わたくし、かたりべ納言も一度は鞘橋を歩いてみたかったです。そして、両側に整然と並んだ燈籠の美しさを今は皆様にお見せできないのが残念でございます。

丸亀街道 並び燈籠




















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今は昔、江戸時代 御供田(ごくでん)と呼ばれる金比羅宮にお供えするお米を作る田がありました。
三条村(現在の丸亀市三条町)の広い田の東西北に並松が植わっており、象頭山の下草を刈って肥やしとしていました。
 よく絵をご覧下さい。牛のお尻に籠がぶら下がっているのがわかりますでしょうか?
お供えをする田に牛の糞を落としてはいけないのでこのようにしていたそうでございます。
 下の写真は現在の様子です。今は御供田ではないようです。並松もすでに全部なくなっておりました。
道路の左は中池とよばれている池です。今は黄色い花の咲いている横の溝が「ごくでん」と呼ばれているそうです。








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こんぴらお札 今は昔、江戸時代、「お守所」でお守り札(大木札だいもくさつ)を買っている絵です。

 よく絵を見るとお札を売っている黒い袈裟を着たお坊さんの中の向かって一番左端の人が手を伸ばして前にいる人の頭を叩いています。

 売る人が買う人の頭を叩くのはどうしてでしょう。

 これは、「当たり!」と言って、叩かれるのを喜ぶ風習があったそうでございます。お札を買った人は皆喜んで頭を叩いてもらったそうです。
又、お守り札に木の節があればおおぶし−大漁につながるというのでこれもよろこばれたそうでございます。






















象頭山は半分しか木がなかった


安藤広重象頭山残念坂絵

今は昔、江戸時代。
安藤広重という方が描いた「象頭山」でございます。
まんのう町羽間の残念坂から象頭山を見たところのようです。
残念坂と言う名前はここまで来て後ろの象頭山を振り返って「残念、もっとゆっくりすればよかった」とか「残念、お参りまではよかったけどその後歌舞伎や富くじや花町で遊びすぎて路銀が乏しくなった」とかいろいろな説があります。

旅人は何日も何時間も歩いて歩いてやっとここまで来て象頭山がまじかに見えたときはどんなにほっとしたことでしょう。「もう少しですよ」帰り道の人に励まされて元気を取り戻して歩いたかもしれません。

象頭山は昔は大麻山の方は木が植わっていなかったので火よけ道から北側の一部を金刀比羅宮が買い取って植林したそうでございます。


















神事場の梅林


琴平町神事場梅林今は昔、明治から昭和初期にかけて神事場には梅の木がたくさん植わっており、春先には馥郁とした香りがあたり一面にただよっていたそうでございます。

昭和3年に発行された「金刀比羅宮風光図会」上巻より
(金刀比羅宮図書館蔵)

















大正15年発行「金刀比羅宮略記」(金刀比羅宮図書館蔵)
神事場は梅林となっています。


神事場の梅林




今は昔、昭和5年から昭和19年まで、琴平の町に4つの路線が走っておりました。
JR琴平駅の前の大宮通りはその4駅が並ぶにぎやかな通りでございました。

東(絵図の下)から見て行きますと「停車場」と呼ばれていたJR琴平駅。煙を吐いた蒸気機関車が駅に到着するようです。
そこから真っ直ぐに伸びた大宮通り、金倉川の手前には「高松行きコトデン」
橋を渡って「坂出行き琴平急行」(現在の琴平郵便局の場所)
神明町の道路を渡って「多度津・丸亀・坂出行き琴参」(現在の琴参閣の場所)昭和38年廃止

昭和19年に琴平急行鉄道が休止その後琴平参宮電鉄に吸収されたが廃止となりまして、昭和38年には琴平参宮電鉄も廃止になりました。

昭和13年発行「金刀比羅宮略記」(金刀比羅宮図書館蔵)





神事場の梅林





さぬきうどん今は昔、江戸時代
軒先にぶら下がっているのが当時のうどん屋の看板です。この店があるのは坂町ですが新町にも同じような看板が下がっている店がありますね。

絵馬の板の形をしたものの下にびらびらがついています。これは何を意味するのでしょうか?ご存知の方はお教えくださいませ。

店の中ではうどんを打っている様子が描かれています。










新町のうどんや

新町のうどんや




















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今は昔、明治時代-大正時代-昭和時代
上は大正13年から大正15年ごろのもの、下は昭和13年から17年のものです。
字が小さくて見えないですが駅とか橋を参考にして町をたどってみてください。
プリントしたものは新町の「ちょっとこ場」に10枚ほど置いてありますのでお寄り下さいませ。

大正時代と昭和時代とでどのように変わっているか、また、現在とどこがちがうか比べて見て下さい。
10箇所以上見つけて下さいね。