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2回目はたてもののたんけんです。
琴平町にはれきしてきなたてものがたくさんあります。
ふだん見慣れているたてものでもよく知らなかったりするものもあるかもしれません。
琴平町史(琴平町のれきしが書かれている本)にある資料(しりょう)をもとにしらべてみました。
説明が長いのでお家の人と一緒にみてください。(資料 「町史ことひら」)
※下記のHPがついたたてものはホームページがありますので直接そちらを見てください。

高燈籠 JR琴平駅 電車の駅 橋のたんけん 公会堂
金刀比羅宮HP 海の科学館HP お寺・教会HP
建物(たてもの)の名前
 高燈籠
   (たかどうろう)


場所(ばしょ)

大宮通り(おおみやどおり)
金刀比羅宮北神苑(ことひらぐうきたじんえん)

高さ
27mぐらい

高燈籠はみなさん見たことがありますね。
でも、いつごろ誰が作ったのでしょうか。

1854年(安政元年)に海からでも見える高い燈籠を建てようとそうだんをはじめた。
1860年(安政6年)にかんせい
 (今から140年ぐらい前)

さぬきの国(かがわけん)寒川郡(さんがわぐん)の砂糖業者の(さとうぎょうしゃ)集まり「萬歳講」(ばんざいこう)とその他の人たちで作った集まりの「千秋講」(せんしゅうこう)でたくさんのお金を出しあって建てた。

昔は瀬戸内海からでもこの燈籠の燈りが見えたそうです。

中は3階建てになっていて昔の人たちの落書きがいっぱいかかれています。
今は中にはいることはできません。
右の写真は1897年(明治30年)ごろ写された。

 ビルなどの高い建物を見なれている現代(げんだい)の私たちが見てもその大きさにおどろきます。昔の旅人(たびびと)はどんなにおどろいたことでしょう。また、電燈(でんとう)のなかった時代にここに燈(とも)された明かりは旅人の心強い道案内(みちあんない)でした。

 右のほうに鳥居(とりい)が見える。銅(どう)で出来ていて、1788年(えどじだい)に江戸の鴻池(こうのいけ)という人が建てた。その後崩(くず)れたがまた建て直して、1912年(大正元年)に金刀比羅宮(ことひらぐう)の元社務所(しゃむしょ)の南に移転(いてん)した。

 屋根(やね)の下の四隅(よすみ)にぶら下がっている鐘(かね)のような形の飾り(かざり)は今はぜんぶなくなっている。
 
 鳥居のよこには一里塚(いちりづか)のしるしの松(まつ)と榎(えのき)のりっぱな木も見える。この木は距離をあらわすだけでなく高燈籠ができるまでは目指す金毘羅の町口を意味する貴重な木であった。高燈籠ができるより前の古い絵図にもきちんとかかれている。

 手前のほうには並びとうろうが左右にきちんと並んでいる。

右は明治38年に東京で発行されたらしい絵葉書
絵葉書と言っても「絵」ではなく「写真」です。
カラー写真がこの時代にあったのでしょうか?
発行元は「渋谷通信堂」
スタンプには「明治卅八年凱旋観艦式記念 IMPERiAL NAVAL 
REVIEW 1905」「東京 TOKYO 38.10.23」とあります。
高燈籠の前は上の写真と同じく畑みたいです。

「講外燈上断」の碑の台石が丸い
藤棚はすでにある

カメラ目線?

勤皇の志士高杉晋作達が琴平の日柳燕石を訪れたのが1864年頃なのでこのような景色をを見たかもしれません。(町史には書かれていません)
富士見町の並び燈籠は1851年(嘉永4年)に完成
(江戸火消し四十八組より寄進されたもの)

北神苑ってただの高い燈籠があるだけだと思っていませんか?いろいろなものがありますよ。
下の写真は全部高燈籠のある金刀比羅宮北神苑(ことひらぐうしたじんえん)にあります。
これはなにでしょうか?神苑のどこにあるか知っていますか? まわりのけしきをよくみるとわかりやすいですよ。黄色い電車がうつっているのもありますね。お友達やおうちのひとと行ってさがしてみてください。
@虫塚(むしづか)
A藤棚(ふじだな) B並び燈籠(ならびとうろう)
えどじだいの絵師大原東野(おおはらとうや)が丸亀街道(まるがめかいどう)のみちをしゅうりするときにぎせいになった虫をくようするためにたてた。
1828年(文政11年)







えどじだいの絵師大原東野(おおはらとうや)が藤の花がすきで苗田(のうだ)の家にうえていたものを虫塚といっしょに明治30年ごろここにうつした。
今そのばしょにはは、「藤の棚」という石碑(せきひ)(左)がたっている。すぐ横には「百三十一丁」の丁石(ちょうせき)(右下)がある。
大正11年(1922)琴平駅移転に伴ってここに移された


燈籠はこわれたものや台の石だけになったものもあります。





C鳥居(とりい)東入口 D鳥居(とりい)南入口 E起点石(きてんせき)
1864年(元治元年)にたてられた。最初は榎井六条高松街道の金毘羅町口にあったがのちにここに移された。
1782年(天明2年)に粟嶋廻船中の人たちがたてたとりい。最初は高薮の多度津街道口にあった。

昔の高薮のしゃしんでは並び燈籠のむこうに鳥居が見える。

交番の前あたりにある。
ここからまるがめまで150丁(ちょう)ありますというあんないの石です。一丁は、やく80メートルです。「従是丸亀江百五十町」ときざまれている。丸亀中府にある丁石と対になっていて丸亀のは「従是金毘羅町口江百五十丁」と刻まれている。
F高燈籠の碑
(だかどうろうのひ)
G狛犬(こまいぬ) H一里塚舊址
(いちりづかきゅうし)
「講外燈上断」ときざまれている。うしろには燈籠をつくったときのことがかかかれている。
安政元年 発願
安政二年 発起
安政三年 地堅
安政四年 地築
安政五年 石台
安政六年 成就
堺(さかい)の「富貴講」が寄進(きしん)したもの。左右にあります。
これは口をあけていますがもう一つは口をとじています。





上の古い写真の説明にあるようにこの場所にも一里ごとの松や榎が植わっていたがそれがなくなってしまったのでそれを記念するため金刀比羅宮がたてた。






北神苑の中ではありませんがすぐ近くにあります。
I象頭山金毘羅大権現霊験記の碑(ぞうずざんこんぴらだいごんげんれいげんきのひ)
これは富士見町の北のはしにあります。むかしの絵図を見ると鳥居や一里塚の木のそばにえがかれています。
1828年(文政2年)にたれられました。
病気にかかった人が金毘羅大権現を信仰したらなおったのでこの碑をたてたとかかれています。



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